8月ジャーナリズム

戦後70年談話

「歴史は過去の政治にあり、政治は現代の歴史である」。ジョン・R・シーリー「英国膨張史」の有名な言葉である。さらに「現代は、歴史が政治である」と付け加えたくもなる。
安倍首相の「戦後70年談話」が閣議決定され発表された。その内容は事前にメディアで「『満州事変以後、侵略拡大』――70年談話へ 有識者懇が報告書」(7日)、「70年談話14日閣議決定――歴史認識『引き継ぐ』首相表明」(8日)と大きく報じられてきた。事前の報道で予定稿を書くことも可能なくらいである。連立与党公明党への配慮もあり、「侵略」「植民地」「反省」「おわび」の文言も一通りに入った。歴史が現在を解決する答案ではない以上、それの採点者を演じるつもりはないし、そのレベルでもないことは大方の識者の評価であろう。
むしろその内容よりも、その効果が気になる。メディア論の大家である佐藤卓也京都大学教授は、ジャーナリズム論と、メディア論の違いをこう述べている。内容の真偽や善悪を問題にするのがジャーナリズム論であり、効果の程度や射程を問題にするのがメディア論であると。だとすれば、談話そのものの内容よりも14日午後の閣議決定で8月15日朝刊の掲載を狙う意図こそ重要であろう。70年前の玉音放送、その国民的記憶に重ねた歴史的演出といえるだろうか。首相談話に対する欧米の評価は予想以上に厳しい。特にアメリカの知識人の評価は厳しい。それに比して日本はどうだろうか。安倍首相の談話効果はそれなりにあったと言わなければならない。私がネットで見たヤフーの意識調査では60%以上が評価している。そして各社の世論調査では内閣支持率が若干回復したと伝えられた。国内メディアの貢献度はかなりのものというべきであろう。

終戦記念日

昭和天皇が読み上げた終戦詔書の冒頭に「忠良なる爾(なんじ)臣民に告グ」とあるように、この文書の宛名は「臣民」、つまり旧日本帝国の人民であって、交戦国やその人民に向けられたものではない。実際、日本政府のポツダム宣言受諾は前日の1945年8月14日に連合国に伝えられており、アメリカのトルーマン大統領は14日午後14時にラジオで日本の降伏を発表し、「対日戦勝記念日(VJデー)の布告は、日本が降伏文書に正式に署名するまで待たねばなりません」と宣言した。今に至るまで終戦記念日の国際標準は、東京湾の戦艦ミズーリー号上で降伏文書調印式が行われた9月2日である。8月15日の「玉音」放送が終戦記念日というのは「日本国民にとって」にとどまる。

「談話」の宛名

70年談話の新聞報道などメディアの報じたものをみて、いつも気になっていたことがある。それは、「70年談話は一体誰に向けられたものなのか?」ということである。日本国民に向けられたものなのか?あるいは近隣諸国に向けられたものなのか?「おわび」の有無にスポットが当たるが、談話のあて名と発表のタイミングについて、納得できる解説記事は今に至るまで読んだ記憶はない。もし本当に、他国民に向けた「戦後」談話であるとすれば、アメリカVJデーの9月2日、あるいは中国「抗日戦争勝利記念日」の9月3日が意識されるべきであろう。また、韓国の女性家族省は昨年2月11日に8月14日を「慰安婦の記念日」とする案を発表している。その日に「談話」を閣議決定することの影響と無神経さをメディアはほとんど報じていない。他者を意識した議論や報道が欠落している。
そもそも日本の国内メディアは、「原爆」の8月6日から「終戦」の15日に戦争報道を集中させるが、9月2日の「降伏」はほとんど報道されない。その意味で、戦争記憶の警鐘をうたう「8月ジャーナリズム」は、他者の存在と降伏の事実を忘却させる機能を持ってきたのだ。

問われるメディアの「終戦」報道

今年は「玉音放送」原盤とともに、「聖断」が行われた御前会議の舞台「御文庫付属庫」の写真なども公開されたこともり、各紙ともいつになく終戦「経緯」については詳しく報じられた。私は戦後70年談話につながる一連の仕掛けと考えているが、それはさておき、今必要なのは、終戦の「報道」の経緯についてのメディア自身の検証ではないか。朝日、毎日など当時の編集幹部の日記はいくつか公開されている。毎日新聞東京本社の社会部長だった森正蔵の「あるジャーナリストの敗戦日記」(ゆまに書房)、大阪本社の社会部副部長だった藤田信勝の「敗戦以後」(プレスプラン)。それによると、45年8月10日付で「すでに敵国側に向かっては和平提議に応ずるという通達が送られた」と書いてあり、早くから終戦情報をつかんでいた。玉音放送後に配布される15日朝刊の社説原稿が14日に届いたことが記録されている。つまり玉音放送を聞く前に主だった新聞の終戦社説は書かれたことになる。こうした予定稿は、決して特別な出来事ではなかった。鈴木健二「戦争と新聞」(ちくま文庫)に、日中戦争の新聞報道について、次のように書かれている。「この当時、戦地からの報道は大抵は予定稿だった。送稿時間の関係で前日に出稿しておき、後で手直しする時は現場を見ていないから、自ずと美文調になる。そこには兵士の戦慄も、逃げ惑う市民の姿も、惨たらしい死体もない。あるのは敵兵を撃滅したとする『戦果』だけだ」
長年続いた習慣が、「終戦」報道でも繰り返されただけである。「自ずと美文調になる」予定稿のスタイルは、現場に取材したはずの9月2日降伏文書調印式の新聞記事でも繰り返された。当日の藤田日記では淡々と事実だけを正確に伝えるアメリカ通信社の記事と比較されている。「もしも、われわれが勝利の特派員として降伏調印式に臨んでいたとしたらどうであろうか。それこそ一世一代の智慧をしぼって書く名文は、司令官の表情がどうだったとか代表の心境はかくもあらんと、心理描写をしたりすることに全力を注ぐことであろう。そして世界史の新しい頁が開いたとか、オベリスクに刻まれた宝石だとか、まことに抽象的な名文をつづるのが日本人記者の通弊である。率直に事実を事実として生のまま書くだけでは満足できないのである」

8月ジャーナリズムから9月ジャーナリズムへ

この戦前から続く伝統が、戦後の「8.15報道」でも繰り返されてきたのではないか。その結果、例えば日本放送協会沖縄放送局が爆破され、「玉音」体験が物理的に困難だった沖縄、あるいはソビエト軍侵攻が始まっていた旧満州(現中国東北部)の邦人体験は「8月ジャーナリズム」から抜け落ちてきた。そもそも、在沖日本軍が降伏文書に調印した9月7日を「市民平和の日」と定めていることを知る日本人はどれほどいるであろうか。まさしく、8.15が「世界史の新しい扉を開いた」としたために、それ以後の「戦後」報道を意識的に報道してこなかったのだ。
平和を祈念する外向きの「70年談話」こそ、国際標準の9月2日に出すことがふさわしいと思う。その翌日に中国が軍事パレードで抗日戦争勝利記念日を祝うとすれば、なおさらである。
新聞が他者も意識した事実重視の報道を目指すのであれば、「8月ジャーナリズム」も9月にシフトすべきであろう。
情緒的で内向きな「8月ジャーナリズム」とは別の、理性的で外向きの「9月ジャーナリズム」が生まれることを望みたい。

安藤 敏明