折々の言葉(3)

朝日新聞掲載 鷲田 清一氏「折々の言葉」より

≪私≫ってのは他者なんです。

アルチュール・ランボー
詩人の書簡(鈴村和成訳「ランボー全集」)から

私は自分のことを『私は』と語りだす。
が、「私」は私だけが使う語ではない。誰もが自分のことを「私」という。
そのかぎりで、「私」はもう私に固有のものではない・・・・・・。
朝一番から理屈っぽいことを言ってすみません。
でもこれで「私らしさ」などとはそう簡単には言えないことをわかっていただきたかったのです。

 

ホネとは秀根(ほね)、大事な根が骨だった。

中西 進
国文学者の「日本人のわすれもの」から

人には目があり、鼻、歯、耳がある。植物も芽があり、花、葉、実がある。
何という照応、かつては体を幹(から)と言い、手足は枝といった。そして根。ホは焔(ほのお)や稲穂のホで「すぐれたもの」を意味するとの説がある。私の生き方の根幹は、そしてその存在の根っこ(ルーツ)は、はたしてどんな形をしているのか?

 

自己のアイデンティティとは、自分が何者であるのかを、自己に語って聞かせる説話(ストーリー)である。

R・D レイン
精神科医の「自己と他者」(志貴春彦・笠原嘉 訳)から

個人のアイデンティティ(同一性)とは、自分がこういう人間であると納得できるそのストーリー、いわば人生の軸となるものだ。が、それは人びとのあいだで揉まれ、翻弄されるなかで、幾度も根底から揺るがされる。人生とはだから、自分を組み立てている物語を一度ならず語りなおしてゆくプロセスだといえる。

人間はできたことよりもやりきれなかったことの方が記憶に残るのかもしれない

港 千尋
教え子との対談(週刊読書人)から

何かを断念した思い出は、いつまでも心に貼りついて消えない。成し遂げたことはすぐに忘れるが、途中でくじけてしまった事実は、疼きのように、ちょっとした拍子に首をもたげる。この過去の言葉を引かれ、そんなことを言いましたかねと、写真家・批評家ははにかむ。それはすでにしっかり身についている証しでしょう。

安藤 敏明